人生を諦めるところから人生は始まるのかもしれないと言う話。
今だから笑って話せるが、私は子供の頃にアメリカの大富豪が住むようなドリームハウスに本気で「いつか住んでやる」と思うような子供だった。
一緒に見ていた母にも「いつかこんな家に住まわせてあげるからね」などと宣っていた。
デパートの高級ブランド店の前を通る時も、「いつかこんなバッグ買ってあげるからね」と。
31歳の今は、そういうものは「普通の労働者」には無縁の存在なのだと知った。
そう、高級住宅やブランドバッグは普通の労働者が買えるものではない。
バブル時代の日本では女子大生が1つや2つブランドバッグを持つのが当たり前だっただろうが、今の貧困大国ニッポンでは一部の恵まれた富裕層しか買えることはない。
それこそ「寝ていてもお金が増えている」「お金にお金を働かせている」資本家だからこそ高価な贅沢品をバンバン買えるのである。
決して庶民が涙ながらに生活を切り詰めたり、大学生やOLがパパ活(という名の売春)してまで手に入れるようなシロモノではないのである。
冒頭に戻ろう。そんな野心だけは一丁前の子供であった。だが一丁前なのはそれだけであった。
家で割と裕福な祖父母に育てられ(しかし一家の中で高学歴なのは田舎から一旗あげ理●大に入った祖父だけだったため正しい勉強法やお受験なんてものとは無縁だった)
甘やかされた私は、勉強を真剣にしたことなどなかった。
屈指の馬鹿中である家から徒歩3分の地元の中学に入った後、偶然英語を教えてくれた先生のおかげで英語に興味を持ち英語留学のある高校(偏差値低め)へと進学した。
大学生になり社会人になりADHDが発覚、自分のポンコツぶりと仕事の出来なさに驚愕した。新卒の就職活動ではコンサルだの外資だのに応募するも門前払い。マーチ以下の四大にしか入れなかった私には順当だった。
そしてある日、私は思う。
「これ、もしかして一生ブランドバッグを好き放題買うこともできないし、ドリームハウスにも住めなくね?」と。
我ながら、すんごい阿呆がいたもんだと思う。
でも読者も思い当たる節はないだろうか?若い頃は誰しもが皆、謎の万能感を持っている。
そのメッキが剥がれ、自分の能力の限界値が見えてきて初めて「自分の器の大きさ」「自分に求められているもの」がわかってくる。
具体的な人生の計画が見えてくるのだ。
私にとってはそう気づいた年齢が娘を妊娠した頃、28歳の時だった。
そして今子育てに毎日奮闘する中で、自分にできることはなんだろうと日々自問自答しているのである。
ある意味自分の本当の人生は今始まったのかもしれない。